135,000部発行
2010年2月6日
通巻第161号
年間郵送購読料3,000円
発行責任者/佐藤 正成
発行/(有)稲毛新聞社 〒263-0043千葉市稲毛区小仲台2-5-2 TEL043-256-4414(代)FAX043-256-4494
田母神理論にみる歴史検証(1)
入野守雄論説委員
「この国誇り掲げて」と題して、元航空幕僚長田母神俊雄氏の講演内容の要旨を12月号と1月号の本欄でご紹介したところ、多くの読者から、共鳴する反響をいただいた。そこで、田母神氏の理論を研究している入野守雄本紙論説委員が日本の戦前戦後の歴史を再検証していただくことにした。
旧ソ連が択捉・国後・歯舞・色丹を奪った
(1)大東亜戦争終結で「太平洋戦争」は占領下の米国が一方的に名付けたもの
米国は広島・長崎に昭和20年8月6日・9日、国際法違反の原子爆弾を投下し、都市を一瞬のうちに破壊し、30万人を虐殺した。既に無差別焼夷弾爆撃で全国の土地は焼け野原になり、百万人近い日本人が焼き殺された。ボロボロの日本にソ連(ロシア)は日本と中立条約を締結しながら突然破棄し、8月8日宣戦布告して襲いかかり、裏切られたわが国は耐え難きを忍び、ポツダム宣言を8月14日に受諾、15日停戦した。
ポツダム宣言には日本軍隊の無条件降伏と大東亜戦争で日本が獲得した領土は元に戻し、連合国は領土拡張の野望はない条件であった。しかし「日本政府による日本軍の武装解除完了と同時に、日本国が無条件降伏した」に変わった。ドイツのナチス政権がヒットラーの自決で崩壊したのと異なり、わが国は政権があくまでも存続していた。
問題なのは、ソ連軍が8月15日以降、南樺太に攻め込み8月末には占領し、南端の真岡では電話交換手たちが決死の思いで最後まで通信を死守し、乙女たちがソ連兵に陵辱され虐殺された。8月18日には千島列島に侵略を開始。日本側がソ連軍と戦うも武器弾薬も尽き、多数の軍人・警官・民間人が殺され、婦女子は凄まじい暴行を受けた。一度も他国の領土になったことのない択捉・国後・歯舞・色丹を29日から9月3日にかけて、順次奪い取った。 米国トルーマン民主党大統領は、見て見ぬ振りであり、原爆投下を命令した男である。
(2)千島樺太交換条約
樺太と千島は徳川幕府と帝政ロシアの永年の懸案事項であった。1808年に間宮林蔵が樺太を探検し、従来シベリア大陸の半島と考えられていたが、島であることを発見。大陸との間の海を間宮海峡と命名し、今日まで国際的に認められている。以来、樺太と千島は日本の勢力圏であったが、幕府の軍事力が弱く、ロシアはなし崩しに侵入を図り、両島は日本とロシアの国民が混在していた。
ロシアは強大な武力を背景に既成事実を積み上げ、1854年に国境画定の日露和親条約でロシア人が侵入できなかった択捉島以南を日本領とする条約を幕府に押し付けた。幕府の軍事力からして、やむを得なかったが、日本の国益を認識している明治政府は粘り強い交渉を続け、1875年、千島・樺太交換条約で千島全島を日本が領有、ロシアが樺太を領有することで決着した。当時の力関係から交換が日本としては精一杯であった。
(3)日清戦争はどうして勃発したか
ロシアの南進政策は国是であり、満州を手中に収めるや、朝鮮半島にも進出してきた。イギリスもロシアに対抗するため、東洋艦隊で済州島の一部を占領して砲台を設置、兵隊を常駐させた。1392年、高麗王朝を倒した李氏朝鮮は500年経過して末期的状態で、開国派・鎖国派・民族派等々に分かれ、それぞれイギリス・ロシア・清国など外国勢力と結んで勢力争いにうつつを抜かしていた。封建体制が続き、身分制度は両班(ヤンバン)、中人、常人(小作人)、奴婢の身分差別は厳しく、少数の特権階級の両班(貴族・役人・地主)が絶対的権力を持ち、中人以下の殺生与奪権を握り、民衆は両班に対し、常に恐れおののき、道で会えば腰を折り、ひざを曲げ、頭を下げたのである。でなければ暴行された。
日本は1875年、外国勢力の餌食になることを心配して、清国から名実ともに独立し、近代国家を樹立して迫り来る列強と対峙するべく政治改革を要望、李王も認識して日本と修好条約を締結した。しかし1894年2月、依然として政治改革を行わない李王朝を放置できず、打倒する内乱が起こった。政府軍は撃破され、清国に鎮圧を要請した。清国は宗主国の権威回復の好機と大軍を送り鎮圧した。朝鮮国が乱れるのは日本の所為と日本封じ込めのため、清国は艦隊を日本近海に派遣、下関港で威嚇行動を繰り返した。
外交交渉がもたれたが、清国は世界を支配しているという中華思想の世界観で、本来外国と対等な国交はあり得なかった。
周辺地域は動物のような野蛮な未開人の国だと、日本を見下し、朝鮮の独立を認めなかった。ちなみに日本の邪馬台国、女王卑弥呼は1800年位前に魏志倭人伝に記録されたもので、よこしまな馬が住む卑しい下品な女王という意味である。やむを得ず日清戦争(1894年8月〜1895年3月)が起こり、日本の大勝利で清の大軍は半島から駆逐された。
(4)日露戦争の原因
清国が見かけ倒しの大国であることが分かり、列強の分捕り合戦となり、ドイツが広州湾、英国が香港・上海・南京・北京に加えて威海衛、フランスが上海に加えて広州湾を租借した。日本軍が血を流し、攻略した大連市の旅順要塞の租借権を当然得たが、ロシアはフランス・ドイツとかたらって中国に返還するよう迫り、三国干渉に屈服させられ返還した。当時、三国に対抗できる軍事力のない日本は、未開の劣悪地で貪欲な列強も見捨てて清国も統治したことのない高砂族の住む台湾の分譲だけであった。豊臣秀吉の時代、台風で台湾に漂着した日本漁民が殺され、交渉に赴いたが政治体制のない原住民で埒が明かず、当時の明朝と交渉したが、支配地でないと門前払いされた因縁の地であった。
ところがロシアは日本が手放した大連市旅順を、恥も外聞もなく1898年に占領して、日本軍にたやすく陥落させられた要塞を分厚いコンクリートで囲み、難攻不落の要塞に改造した。さらに朝鮮は日本が三国干渉に屈したのを見て、日本を侮りロシアに接近した。1896年2月、新露派の手引きで李王はロシア公使館に逃げ込み詔勅を発し、親日政権の首相を逆賊と決めつけ惨殺した。日本人顧問や日本軍教官は追放され、ロシア人が取って代わり、すべてはロシアが意のままに支配した。
ロシアの横暴な振る舞いに日英米は反発。さすがの李王も1897年2月、ロシア公使館から脱出して内外に大韓帝国成立を宣言、自身を皇帝と名乗った。1900年7月、ロシアは朝鮮を北緯38度線で分割、南を日本、北をロシアが支配する提案をしてきた。日本は提案を拒否した。英国はロシアが大連・旅順に着々と要塞を構築し、英の権益の清国に侵入してくるのを恐れ、日本は朝鮮の権益を守るため、日英でロシアに対抗すべく1902年1月、日英同盟が成立した。しかしロシアは満州に大兵力を集め、1903年に朝満国境の竜岩浦の租借を朝鮮に要求した。
満州に隣接する北朝鮮に侵入するロシア軍を阻止するため、日本は1904年2月「日朝議定書」を調印、大韓帝国の皇室の安寧。領土保全独立を保障し、第三国に侵略された場合に、日本が十分な行動を取れるよう朝鮮が便宜を与える。日本と共同体であり協調して事に当たる。等々を取り決め、同年2月、日露戦争が開始された。数年前から米国のリーマンブラザーズは大金をわが国に貸してくれ、英国で軍艦や武器弾薬が調達できた。朝鮮の仁川港のロシア軍艦2隻を日本海軍は撃沈。極東に展開しているロシア太平洋艦隊を次々と撃破し、乃木将軍の陸軍は5カ月間、猛烈な抵抗に遭いながら、1905年1月に難攻不落の旅順要塞を陥落させた。
残るロシアの戦力は世界最強のバルチック艦隊で戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6、他である。日本海軍の総戦力は東郷平八郎元帥の連合艦隊で戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12、他である。ロシアは起死回生でバルチック艦隊を日本に向け、出発させた。バルチック海から日本海まで半年をかける長旅である。スエズ運河は英の管理下で戦艦は通行不可である。アフリカの喜望峰を回ってインド沖のルートの大半は、日本と同盟にあるイギリスの植民地で、艦隊通過の情報が逐一もたらされ、我国を利したのは間違いない。
1905年5月26日、イギリスの租界上海にロシア船入港がイギリスからもたらされた。
【以下次号に続く】